10/13 until death do us part

ここのところ、私にとって大事な人を色んな形で失くす事が多くて、なんだかジワジワ心がやられています。やっぱりどうも元気がないというか、覇気がないというか、何事にも気力が無いまま、やることをこなし、頭がふわふわの状態の毎日。。。うぅー

 

そのうちの一人なのですが、つい最近、海外の大事な友人をガンで亡くしました。ただひたすら悲しい。色んな思い出があって、それだけ苦しみが大きい。

 

その友人と家族宛に手紙を書くことにしました。学校のキリスト教の先生がアメリカ人なので、英語や、宗教的なところでお悔やみの言葉などのアドバイスをもらいました。そのときふと思ったことを書き留めます。

 

<仏教とキリスト教の死生観について>

 

仏教は本来輪廻解脱を目標にしていて、生きることが苦痛であるため、死こそが苦痛からの解放への一歩という考えがある。(この世、あの世っていう言葉の分け方にすら輪廻解脱の意味が顕著に現れてると思う)イメージ的には、仏教の永遠は輪廻という輪をぐるぐる巡ることから脱却することで、それが救済であるということ。車輪の外に投げ出されることが永遠に繋がるみたいな。

 

一方キリスト教は、生きることは喜びであり、神から授かったものという考えがある。死ぬということは永遠の始まりというわけだ。一直線上に始まりと終わりがあり、終わりの先に永遠(神のいる場所)があり、そこにたどり着くことが救いというイメージ。

 

つまり、成仏や大往生などと言った言葉があるように仏教は、死ぬことで苦痛から解放されるという意味合いが大きく、キリスト教は死ぬことで、神のもとに逝けるという救いの意味合いが大きい。意味合いは違うが、死ぬことはどちらにとっても永遠に繋がるということ。

 

(ということなのかな?)

 

なんだか余計わからなくなってきた、、、(私はキリスト教信者ではないので)死への捉え方やカルチャーが違うと、こんなにも言葉の選び方が変わるものかと驚きますね。(もちろん残された人間として彼の死は誰にとっても悲しいことけど)私にとって彼の死はガンの苦しみからの解放という感覚だけど、これは実に仏教的な考えかもしれない(と考えが止まらなくなって手紙をかかないでブログを書くに至っている)。

 

でも、最終的に思ったことは、これを知った上で(郷に言っては郷に従えというわけではないけど)亡くなった人やご家族の心に寄り添うことは、宗教を超えてすべきことで、宗教や死生観は関係ないと。(じゃあなんであんなに悩んでブログに書いたんだ!っていうね)

 

このことがきっかけではないけど、ほかにも宗教文化の違いに気づかされることが日常的にあります。

 

<儚いという感覚>

 

日本人は、儚さや無常観を大事にする考えを強く持っている。仏教には「無常観」っていうものがあり、この世に存在しているものは、常に変化するもので、必ず移ろいゆくもので、一生同じというものはない(常無き様)という考え方だ。日本人が桜を見て、美しいと思うのは、その移ろいゆき刹那に現象が滅してしまう様、(すなわち無常観)が我々の中に考えずとも美意識として浸透しているからだと考えられないだろうか。(そのカウンターとして、外国人は永遠を求める傾向がある。)蝉の命が儚いとか桜が美しいと日本人が思うのは、知らず知らずのうちに仏教観念が我々の中を流れているからなのでしょう。

 

と私は、刹那や儚さなんて、なんのその、青学の銀杏並木の銀杏を臭い臭い!といいながら踏みつぶすのであった。(雑に終了)

 

 

<日本人は無宗教?>

 

さきほど、日本人には無常観という考えが自然と組み込まれているという話をしたが、もう少し掘り下げてみようかと思う。最近、日本人は無宗教だという触れ込みが多いが本当にそうだろうか。日本人の大半は冠婚葬祭でのみ各々の宗教儀式を行う傾向がある。仏教徒であるのにも関わらず、文化・歴史という土台を完全無視してクリスマスを祝ったり、結婚式をチャペルで挙げたり散々な奇行を繰り返しているし、外国人から白い目で見られるもの無理はない。ただ、それが日本人は無宗教であるということとは直結しないと考えられる。

 

ご飯を食べるときに頂きます、ごちそうさまと言いますよね?これは元来仏語(フランス語って意味じゃないよ♡)仏教の言葉で、自分の命を保つために命を頂きます、このごちそうを用意してくれたすべてのものに感謝するという意味が元々あったのです。

 

確かに、キリスト教に比べたらお祈りや礼拝とか聖書とかそういったイベントごとや布教活動が盛んではない。また、何を信じるか、何が正しいのかを神に委ねるのがキリスト教だが、仏教は個人個人の生き方や道徳がどうあるべきかが焦点であって、同じ宗教というくくりでも考え方の根本が違うように感じる。キリスト教が校則のようなものであれば、仏教は自分の良心の働き方をさすものだと私は考えています。この、ご飯のご挨拶以外に、日本人事細かな美しい精神はまさしく仏教の賜物でしょう。私たち日本人はあまり、お経を唱えたり儀式ごとをやらなくなりましたが、これも時代の移ろいによるもので、そして無常観の内でもあるのかもしれませんね。

 

なので、結論→日本人は無宗教というのはウソ!日本人は気がついていないだけで実に仏教に根付いた生活をしている!

 

と、こんなことをいいつつ(文化背景度外視イベント!)今週末はレギュラーDJイベントDROPでハロウィンパーティやっちゃいまーす!みなさん18日はネオに仮装してどうぞ!(˼●̙̂ ̟ ̟̎ ̟ ̘●̂˻)♡ ((((さらっと告知))))

 

 

<おまけ:神に誓う>
 
海外ドラマを見ていて思った事。あるシーンで追いかける刑事と逃げる被疑者、捕まえて銃で突きつけてるシーン。
 
被疑者「I swear to god!!!! 僕じゃない!!!」
刑事A 「あー?本当のことをいえ!」
刑事B 「もういいだろA!彼は神に誓ったぞ!離してやれ!」
 
みたいな。え〜〜〜〜!?神に誓って僕じゃないって言ったらかーんたんに離しちゃったよ〜と最初はびっくりしちゃいましたね。日本じゃ考えられないですね。「Swear to god」がまかり通る背景にはそれだけ社会と人の心と宗教の結びつきがあるっていうことで、それだけキリスト教は信心深いのですね。感心させられました。
 
 
たったこれだけなんですがね、ドラマを観ていても、日本の美しい景色を見ているだけでも、宗教っていう色眼鏡を通して物事を見ていたりするかもしれないのです、良くも悪くもね。
 

ちょっと重くなりすぎたかしら。

 

おしまい