4/16 災害と芸術

 

先日起きた熊本の大地震について心を痛めてる方も多いでしょう。このタイミングで言うべきなのか悩ましいところですが、3.11を経験し総文で学んだことを今だからこそもう一度振り返り発信することが大事だと思うので書かせてください。

 

◎3.11と芸術

3.11の震災時に、私は友人2人と自宅で遊んでいた。その時は言うまでもなくこれまでに感じたことのない大きな揺れとこの先どうなるのだろう?という漠然な不安と恐怖に苛まれていた。もちろんそんな時に音楽を聴いて元気を出そうとか、ダンスをして気分転換をしようという気分にはなったくなれなかった。ただただ外で揺れが収まるのを身をかがめて祈るだけだった。

 

 

その後、様々な文化産業も震災のあおりを受けるわけである。音楽ライブの中止、アーティスト活動の休止、卒業式や入学式などのお祝い事も無くなるなど、あらゆるジャンルの文化が「自粛」ムードになってしまった。震災後に通常運営するとマスメディアがこぞって「不謹慎」だという非難を浴びせ、世間も心を被災者とともにあることを強いられた。こういった非常事態の独特の風潮の元、日本には不要となる文化ができてしまうという問題が浮き彫りになった。しかし、震災が起こった直後なんて人命優先で芸術や文化は何もできないんだから、今とやかく言うことではない、というのが一般的な見解である。

 

 

◎震災時において芸術は何ができるのか?

震災直後に行われた京都造形大の卒業式で、哲学者の浅田彰さんのスピーチが実に興味深いので紹介します。浅田さんは災害時に表現行為や芸術に何ができるか?ということを三段階にわたって述べている。

 

浅田彰さん「デザインやアートは何もできない。」

衣食住の何の効力も持てないという無力さを知るということが前提である。これはいささか想像力に欠ける大前提ではないかと思いがちだが、人命優先の日本では当てはまる視点である。

 

一方、欧米ではある程度すごい文化財保存施設に足を踏み入れる際には、事前に書類にサインをしなければならない。それは緊急事態における文化保護を最優先とし、あなたの命の保証はできません、というものだ。この場合、人間が培ってきた文明・文化の計り知れない価値があるものは人命に勝るという考えが前提となる。(その証拠と言ってはなんだが、映画『ミケランジェロ・プロジェクト』ではナチスドイツが強奪した美術品をアメリカ人のチームが救済しに行くというストーリーの映画がある。映画そのものはさほど重要ではないが、そういった命をかけて芸術を守るという歴史も存在するということだ。)

 

だが、この考えが浸透しないのは日本が災害大国ならではであるかもしれない。(逆に、文化財を正義の名のもと、守りあげた功績を掲げ祀ることは、実にアメリカらしい考えだと思う。)

 

 

②「長期的に見たら、原発事故も人間デザインの自戒である。」

自然や他者をコントロールしようとし、その上に文明を立てる20世紀の人間がデザインした社会こそ、自戒すべきアートなのである。こういうとみんな大好き!Chim↑Pomが2011年に原発事故を受け、渋谷駅の岡本太郎の「明日の神話」の右下に続編をゲリラ設置したことを思い出すでしょう。彼らもこのことを意識した上で、彼らの「介入」という手法でその芸術活動に至っています。

 

『今まさに起きている事態を前に芸術は何ができるのか。そのひとつの答えとして、Chim↑Pomは日本の被曝体験のクロニクルを描いた美術作品を傷つけることなくアップデートし、ネットの情報拡散のダイナミズムを利用してマスメディアに侵入し、恐怖と安心を集中管理するスペクタクルに対して芸術による介入を行う。ゲリラとしての行動力を示すこのプロジェクトは、原子力という社会的課題を扱うと同時に、高度化した支配の中での表現と生存の自由なありかたを問いかける。』(http://chim-pom.syncl.jp/?p=custom&id=13339952 より引用)

 

 

東日本大震災の2年前に企業メセナ協議会が発表した『ニュー・コンパクト』にはこう書かれている。

(http://www.mecenat.or.jp/archive/release_2009_03_16_2newcompact.pdf)

 

『社会的危機を乗り越え、日本を再生するにはバーチカルで巨大な社会像から脱却し、リアルで等身大の持続する社会を作り出す必要があります。そうした社会の創造のためには、今こそ文化への集中投資が急務といえます。文化は、社会を形成する人々の知恵の総体であり、社会創造のための新しいソフトを生み出す力の源泉だからです。「国民の総幸せ」を目指すには、自然の歴史を破壊して巨大な経済を生み出すのではなく、そこにある自然や歴史を貴重な資源として、あるがまま創造的に生かして、コンパクトな社会を生み出す「文化による社会創造」へと、大きくシフトすることが肝要です。』

 

この災害を経験し自戒しながら、これからの未来を新しく、そしてより優しいものに築き上げていくのが21世紀の人の役割なのである、ということだ。

 

 

③「言語を絶する事件を越えられるのは芸術だけだ。」

芸術は衣食住には無力で、心の癒しにはなる。これはとても大事だが、それにとどまらずより深いところで人間を勇気付けることができるはずだというのが浅田彰さんの考えだ。

 

『ニュー・コンパクト』からもう一度引用したい。

 

『地域コミュニティー再生の原則は、まず何よりも、そこに暮らす人々の「これからもずっと住み続けたい」という実感にあります。住む人の幸せがあればこそ、地域外の人もまた「行ってみたい」「移り住んでみたい」と感じるようになるのです。このような魅力を備えた持続可能な地域社会を実現するために、市民自らが地域創造に取り組む必要があります。その原動力となるのが、そこに暮らす人々の心の寄りどころである「地域文化の再生と創造」です。それゆえに、地域の社会資本の整備において、地域文化への投資に重点を置くことが肝要です。』

 

この考えからたくさんの震災地域の文化が復興を遂げた。文明・文化は人間が人間たる所以であり、それを再生し創造することは彼ら被災者が人間として再生し創造することを同じことなのではないだろうか?

 

 

話を少し戻したい。

 

 

「災害時における芸術や文化に何ができるか?」という問いに対し散々考えてきたわけだが、皆さんはどう思ったでしょうか?

 

私の至った結論は、「芸術や文化を通して自分自身を変えていくことが、芸術や文化を通して社会を変えることになる」ということだ。2011年に自粛ムードが漂い、文化芸術が息の根をひそめたことは必ずしも正解ではないはず。心を痛めるのは当然、無力さを感じるのも当然。だけど被災した方々のためにも、私たちは私たちらしく生活をし、再生と創造を繰り返し続けることが復興への近道ではないだろうか。それが被災地ではない、芸術を享受する我々の使命ではないだろうか。

 

そして何より、熊本を中心とする九州地方の被災された方々の、地域の復興と心の復興がより早いことをお祈り致します。

 

おしまい