4/23 ムービーナイト

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I understand feeling as small and as insignificant as humanly possible. And how it can actually ache in places you didn't know you had inside you. And it doesn't matter how many new haircuts you get, or gyms you join, or how many glasses of chardonnay you drink with your girlfriends...

 you still go to bed every night going over every detail and wonder what you did wrong or how you could have misunderstood. And how in the hell for that brief moment you could think that you were that happy. And sometimes you can even convince yourself that he'll see the light and show up at your door.

 And after all that, however long all that may be, you'll go somewhere new. And you'll meet people who make you feel worthwhile again. And little pieces of your soul will finally come back. And all that fuzzy stuff, those years of your life that you wasted, that will eventually begin to fade.


スッとした台詞。涙がでた。大した感動の言葉ではないのだけど、この台詞に共感できるまで1年間かかった。

今まで観た映画、また観直したら、景色がまた変わっているかもしれない。またたくさんの映画を観たいな。

これからまたたくさんの新しい景色をみよう。


おしまい。


4/16 災害と芸術

 

先日起きた熊本の大地震について心を痛めてる方も多いでしょう。このタイミングで言うべきなのか悩ましいところですが、3.11を経験し総文で学んだことを今だからこそもう一度振り返り発信することが大事だと思うので書かせてください。

 

◎3.11と芸術

3.11の震災時に、私は友人2人と自宅で遊んでいた。その時は言うまでもなくこれまでに感じたことのない大きな揺れとこの先どうなるのだろう?という漠然な不安と恐怖に苛まれていた。もちろんそんな時に音楽を聴いて元気を出そうとか、ダンスをして気分転換をしようという気分にはなったくなれなかった。ただただ外で揺れが収まるのを身をかがめて祈るだけだった。

 

 

その後、様々な文化産業も震災のあおりを受けるわけである。音楽ライブの中止、アーティスト活動の休止、卒業式や入学式などのお祝い事も無くなるなど、あらゆるジャンルの文化が「自粛」ムードになってしまった。震災後に通常運営するとマスメディアがこぞって「不謹慎」だという非難を浴びせ、世間も心を被災者とともにあることを強いられた。こういった非常事態の独特の風潮の元、日本には不要となる文化ができてしまうという問題が浮き彫りになった。しかし、震災が起こった直後なんて人命優先で芸術や文化は何もできないんだから、今とやかく言うことではない、というのが一般的な見解である。

 

 

◎震災時において芸術は何ができるのか?

震災直後に行われた京都造形大の卒業式で、哲学者の浅田彰さんのスピーチが実に興味深いので紹介します。浅田さんは災害時に表現行為や芸術に何ができるか?ということを三段階にわたって述べている。

 

浅田彰さん「デザインやアートは何もできない。」

衣食住の何の効力も持てないという無力さを知るということが前提である。これはいささか想像力に欠ける大前提ではないかと思いがちだが、人命優先の日本では当てはまる視点である。

 

一方、欧米ではある程度すごい文化財保存施設に足を踏み入れる際には、事前に書類にサインをしなければならない。それは緊急事態における文化保護を最優先とし、あなたの命の保証はできません、というものだ。この場合、人間が培ってきた文明・文化の計り知れない価値があるものは人命に勝るという考えが前提となる。(その証拠と言ってはなんだが、映画『ミケランジェロ・プロジェクト』ではナチスドイツが強奪した美術品をアメリカ人のチームが救済しに行くというストーリーの映画がある。映画そのものはさほど重要ではないが、そういった命をかけて芸術を守るという歴史も存在するということだ。)

 

だが、この考えが浸透しないのは日本が災害大国ならではであるかもしれない。(逆に、文化財を正義の名のもと、守りあげた功績を掲げ祀ることは、実にアメリカらしい考えだと思う。)

 

 

②「長期的に見たら、原発事故も人間デザインの自戒である。」

自然や他者をコントロールしようとし、その上に文明を立てる20世紀の人間がデザインした社会こそ、自戒すべきアートなのである。こういうとみんな大好き!Chim↑Pomが2011年に原発事故を受け、渋谷駅の岡本太郎の「明日の神話」の右下に続編をゲリラ設置したことを思い出すでしょう。彼らもこのことを意識した上で、彼らの「介入」という手法でその芸術活動に至っています。

 

『今まさに起きている事態を前に芸術は何ができるのか。そのひとつの答えとして、Chim↑Pomは日本の被曝体験のクロニクルを描いた美術作品を傷つけることなくアップデートし、ネットの情報拡散のダイナミズムを利用してマスメディアに侵入し、恐怖と安心を集中管理するスペクタクルに対して芸術による介入を行う。ゲリラとしての行動力を示すこのプロジェクトは、原子力という社会的課題を扱うと同時に、高度化した支配の中での表現と生存の自由なありかたを問いかける。』(http://chim-pom.syncl.jp/?p=custom&id=13339952 より引用)

 

 

東日本大震災の2年前に企業メセナ協議会が発表した『ニュー・コンパクト』にはこう書かれている。

(http://www.mecenat.or.jp/archive/release_2009_03_16_2newcompact.pdf)

 

『社会的危機を乗り越え、日本を再生するにはバーチカルで巨大な社会像から脱却し、リアルで等身大の持続する社会を作り出す必要があります。そうした社会の創造のためには、今こそ文化への集中投資が急務といえます。文化は、社会を形成する人々の知恵の総体であり、社会創造のための新しいソフトを生み出す力の源泉だからです。「国民の総幸せ」を目指すには、自然の歴史を破壊して巨大な経済を生み出すのではなく、そこにある自然や歴史を貴重な資源として、あるがまま創造的に生かして、コンパクトな社会を生み出す「文化による社会創造」へと、大きくシフトすることが肝要です。』

 

この災害を経験し自戒しながら、これからの未来を新しく、そしてより優しいものに築き上げていくのが21世紀の人の役割なのである、ということだ。

 

 

③「言語を絶する事件を越えられるのは芸術だけだ。」

芸術は衣食住には無力で、心の癒しにはなる。これはとても大事だが、それにとどまらずより深いところで人間を勇気付けることができるはずだというのが浅田彰さんの考えだ。

 

『ニュー・コンパクト』からもう一度引用したい。

 

『地域コミュニティー再生の原則は、まず何よりも、そこに暮らす人々の「これからもずっと住み続けたい」という実感にあります。住む人の幸せがあればこそ、地域外の人もまた「行ってみたい」「移り住んでみたい」と感じるようになるのです。このような魅力を備えた持続可能な地域社会を実現するために、市民自らが地域創造に取り組む必要があります。その原動力となるのが、そこに暮らす人々の心の寄りどころである「地域文化の再生と創造」です。それゆえに、地域の社会資本の整備において、地域文化への投資に重点を置くことが肝要です。』

 

この考えからたくさんの震災地域の文化が復興を遂げた。文明・文化は人間が人間たる所以であり、それを再生し創造することは彼ら被災者が人間として再生し創造することを同じことなのではないだろうか?

 

 

話を少し戻したい。

 

 

「災害時における芸術や文化に何ができるか?」という問いに対し散々考えてきたわけだが、皆さんはどう思ったでしょうか?

 

私の至った結論は、「芸術や文化を通して自分自身を変えていくことが、芸術や文化を通して社会を変えることになる」ということだ。2011年に自粛ムードが漂い、文化芸術が息の根をひそめたことは必ずしも正解ではないはず。心を痛めるのは当然、無力さを感じるのも当然。だけど被災した方々のためにも、私たちは私たちらしく生活をし、再生と創造を繰り返し続けることが復興への近道ではないだろうか。それが被災地ではない、芸術を享受する我々の使命ではないだろうか。

 

そして何より、熊本を中心とする九州地方の被災された方々の、地域の復興と心の復興がより早いことをお祈り致します。

 

おしまい

3/19 chasing pavements

自分の中で何かがぶっ壊れて死にかけた1年前。よく生きてられたなと思うけど、きっとそれでもこの世界を自分として生きたいという気持ちが何処かにあったのだろうか。

頑張れてるかな、まだ闘えてるかな?足を引きずり、涙を拭いながら、必死に歩みを進めてきた。

いまは、膝を抱え頭を抱え…たくさんのことを抱え込みすぎて、誰かを抱き締める余裕もないけれど。

失恋したときに、この曲をオススメしてくれた人がいた。彼は愛を諦め自分の道を歩んだのだろうか、


追い込まれると二択しかないような気持ちになるけど、諦めないで歩んだ道の先に愛があったりしないのだろうか。片方を諦めるしかないのだろうか、

欲深い私は、そうじゃないと分かるまで(あるいはそう信じていると自分を誤魔化し、)生き続けるんだろうか。

でもまた春が巡ってきたわけだしさ、こんなポップな曲を聴いたっていいじゃないの。



傷ついても、傷ついても、それでも誰かを愛することを諦めたくない、それはきっと、自分を諦めないことと一緒だから。

多分、

おしまい。

2/25 珈琲

久しぶりに珈琲を飲みました。

本当はコーヒーは飲めないのだけど、コーヒーの香りはとてもリラックスさせてくれる。それとも一緒にいる友人がそうさせてくれるのだろうか。

高校時代は、東海道線が運転見合わせをするたびに何も言わなくても友達が必ずスタバに集合してくれて1、2限サボって遅刻して一緒に先生に怒られたりしたな。

地味でつまらなくて、目的意識なんか何もなくて無力感に苛まれるばかりの日々で、青春なんかとは程遠い高校生活を送っていたと思っていたけど、そういう瞬間が実は幸福だったのかもしれない。

青春とは今この瞬間起きてるわけじゃなくて、思い出の中で送るものなのかもしれない、と思う今日この頃です。

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12/20 チャップリンとヒトラー

政治的な意見がしたいわけでもなく、自分の思ったことなどを押し付けたいわけではないですが、どうしてもシェアしたいことがあるので話します。年末ですし、やり残したことがないようにしたいので、長いですがよろしければお付き合いください。


以前もブログで書きましたが、9.11をきっかけに私の人生や価値観が大きく変わりました。世界はどんどん怒りを勢いに身を任せてい、自分は何もできず、自らの無力感にとてもモヤモヤしました。


最近ではパリでテロもありましたね。私の友人は誰一人巻き込まれませんでしたが、みな心を傷めました。私もです。それと同時にイスラム教徒の人への偏見、迫害や民間人が爆撃によって亡くなることがとても許せないのです。どちらの悲劇も比べようがなく、悲しい事実です。このキリスト教徒vsイスラム教徒の構造になりつつある世の中は、ナチスドイツ時代のヒトラーを思い起こさせてやまないのです。いまの世界は非常に不安定で、恐怖に満ちあふれています。このやるせない自分の気持ちをどう処理していいのか、ずっとわかりませんでした。毎年9月11日が来るたびに同じ質問を繰り返して、色んな人と議論をして、それでもうまく答えを出すことができませんでした。そもそも答えなんか見つからない問題でもあるのですが、気持ちの整理をつけたかったのかもしれません。


今回は戦争や争いの理由や原因などを追求したいわけではありません。ただ1人の人間としてどう気持ちで生き、世界とどう向き合えばいいのか、なんとなくわかった気がするきっかけとなった映画があるので紹介したいと思います。


ここでやっと本題なのですが、その映画は

『チャーリー・チャップリン/独裁者』です。大学のメディアと政治という授業で紹介されて、観て、大変感銘を受けました。


この映画は、チャップリンナチスドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーに対抗するために作った皮肉のこもった映画です。チャップリンといえば、言葉を使わず面白おかしく、そしてたまに素敵なロマンスのある喜劇王として有名ですが、この映画はチャップリンが作った初めてのトーキー(台詞のある映画)です。ヒトラーと闘うべく様々な妨害に臆することなく、ヒトラーの資料を集め徹底的で事細かな台本を2年もの歳月をかけて書き上げます。チャップリンはその映画で主演を務め、ヒトラーを思わせる役を演じ、見事に演じてみせます。


ヒトラーの当時のカリスマ性はその演説のうまさにあったと言われています。その演説や仕草や言葉遣いも徹底的にオマージュし、ヒトラーに対抗すべくチャップリンは想いを言葉にして映像にぶつけるのです。その映画は世界的に評価されているのですが、その所以は最後の5分間の演説にあります。ヒトラーの演説力を見事に再現しつつも、感動的なスピーチをしてみせます。私も涙がこぼれるのではないかと思うほど感動しました。いかに文章を書くのでぜひその内容を読んでください。(


以下の翻訳文は大野祐之『チャップリンヒトラー岩波書店2015年より抜粋します。)


結びの演説。


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 申し訳ない。私は皇帝なんかにはなりたくない。そんなのは私のやることじゃない。誰かを支配したり征服もしたくない。できれば、ユダヤ人にしろキリスト教徒にしろ、黒人にしろ、白人にしろ、みんなを助けたいと思っている。

 私たちはみんな、お互いを助けたいと望んでいる。人間とはそういうものだ。他人の不幸によってではなく、お互いの幸福で支えあって生きていきたい。私たちは、お互いを憎んだり軽蔑したりしたくはない。この世界には一人ひとりのための場所があるんだ。そして、良き大地は豊かでみんなに恵みを与えてくれる。


 人は自由に美しく生きていけるはずだ。なのに、私たちは道に迷ってしまった。貪欲が人の魂を毒し、憎しみで世界にバリケードを築き、軍隊の歩調で私たちを悲しみと殺戮へと追い立てた。スピードは速くなったが、人は孤独になった。富を生み出すはずの機械なのに、私たちは貧困の中に取り残された。知識は増えたが、人は懐疑的になり、巧妙な知恵は人を非常で冷酷にした。私たちは考えるばかりで、感情をなくしてしまった。私たちには、機械よりも人の心、抜け目のない利口さよりも優しさや思いやりが必要だ。そういったものがなければ、人生は暴力に満ち、すべては無になってしまう。


 飛行機とラジオは私たちを結び付けた。本来それらの発明は人間の良心に訴えて、国境を越えた兄弟愛を呼び掛け、私たちを一つにするものだ。今も、私の声は何百という人々に届いている。何百万もの絶望する男や女、そして小さな子供たち、人々を拷問し罪なき者を投獄する組織の犠牲者たちに。そんな人々に言おう、絶望してはならない、と。今、私たちを覆う不幸は、消え去るべき貪欲、人間の進歩の道を怖れる者の敵意でしかない。憎しみは消え去り、独裁者たちは死に絶える。彼らが民衆から奪い取った権力は、再び民衆のもとに戻るだろう。人に死のある限り、自由は決して滅びることはない。


 兵士たちよ!けだものに身をゆだねてはならない!あなたたちを軽蔑し、奴隷にし、生き方を統制し、何をして、何を考えて、どう感じるかまで指図する奴らに。彼らはあなたたちを猛訓練させ、食事まで規制し、家畜のように扱って、大砲の餌食にする!そんな血が通っていない奴らに身を委ねてはならない。機械の頭と機械の心を持った機械人間に。みんなは機械じゃない、みんなは家畜じゃない、みんな人間なんだ!心に人間の愛を持っているんだ。憎んではならない。ただ愛されない者だけが憎むのだ。愛されない者と血の通わぬ者だけが。


 兵士たちよ!奴隷のためにではなく、自由のために闘おう!「神の国はあなた方のうちにある」と『ルカ伝』17章に書いてある。それは、一人の人や、一つの集団ではなく、すべての人々、みんなのうちにあるんだ!あなたたち、民衆は力を持っている!機械をを生み出す力を。幸福を創る力を、あなたたち、民衆はこの人生を自由で美しいものにし、素晴らしい冒険にする力を持っている!さあ、民主主義の名のもとに、その力を使うんだ!力を合わせて、新しい世界のために闘おう!人々には仕事の機会を与え、若者には未来を、老人には保障を与える立派な世界のために。


 けだものたちもそんな約束をして権力に上り詰めた。だが、彼らは嘘つきだ!彼らは約束を守らない。絶対に守ろうとしない。独裁者たちは自分たちを自由にし、民衆を奴隷にする。今こそ、あの約束のために闘おう!世界の解放のために闘うんだ。国同士の壁を取り除くために、貪欲と憎しみと偏狭を取り除くために。理性ある世界---科学と進歩がすべての人々の幸福へと通じている、そんな世界のために闘うんだ。

 兵士たちよ、民主主義の名のもとに、持てる力を集めよう!


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YouTubeのリンクもつけました。字幕付きです。ぜひチャップリン自身の声、身振り手振りとその言語での演説力にも注目してみてください。


http://youtu.be/xl2e69fEFf4


“Let us unite!”、「ひとつになるんだ!」(引用した本の翻訳上は「持てる力を集めよう」)、”Do not despair”、「絶望してはならない」。この力強い言葉に私は心を打たれ、救われました。皆さんはいかがでしたか?1940年の映画なのですが、今でもなお人の心を動かします。当時は日本でも、いろんな国でもアメリカでさえ公開禁止、または批判の声がありました。しかしそれが現在は見直されてきて評価されてきています。そんな時代がきて、やっとチャップリンの想いが自由に放たれたと思うとなんだか嬉しいです。それと同時に、1940年の映画が現在の社会問題に対しても影響力を与え、再評価されている内容になっています。チャップリンの想いが届き、救われ、人々が幸福が向かう日が来るように祈り、思考を止めず、ひたすら世界の声を聴く、それがこの映画をみた私の使命ではないかと考えています。皆さんにも伝われば幸いです。たくさんの人が生きるこの世界で、私みたいな人間がどれほどのことができるのかはわかりません。しかし、未来に希望をもって、これからも自分を信じて人生を歩みたいと想います。


<追記>


演説のあとのシーンに私がとても好きなシーンがあるのでそれも紹介します。主人公が皮肉にも愛してしまったユダヤ人の女性にあてた愛の言葉です。互いに離ればなれになり、聞こえるはずのない声が、同じ空を通して彼女に届きます。


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 ハンナ---僕の声が分かる?どこにいても空を見上げて、ハンナ!雲が切れて、日がさし始めた。僕たちは暗闇を抜けて、光の中に入っていく。僕たちは新しい世界に近づいている。もっと心優しい世界に。人間が自分たちの憎しみや貪欲や残忍さを克服する、そんな世界だよ。


 元気を出して、ハンナ。人間の魂には翼が与えられていた。今、やっと飛び始めた。それは虹の中へと飛んでいくーーー希望の光へ、未来へと。輝かしい未来は、君や僕、そして僕たちみんなのものだ。上を向いて、ハンナ、元気を出してーーー。


   Hannah. can you hear me? Wherever you are, look up, Hannah. The clouds are lifting. The sun is breaking through. We are coming out of the darkness into the light. We are coming into a new world, a kindlier world, where men will rise above their hate, their greed and brutality.


   Look up, hannah. The soul of man has been given wings, and at last he is beginning to fly. He is flying into the rainbow — into the light of hope, into the future, the glorious future that belongs to you, to me, and to all of us. Look up, Hannah. Look up.


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彼女へあてた史上最高とも言えるほどの愛の告白、チャップリンは大変なロマンチストだったのですね。言葉の隠喩が素敵ですよね。特に新しい世界のあらわれを「雲が切れて、日がさし始めた」と表現するところや「元気をだして」をcheer upではなく”Look up”ときちんと空に懸けて上(空)を向いて、というメッセージ表現をするチャップリン!!もうすべてにおいて素敵でした。惚れちゃいますね。


もう一つだけ、ハンナの最後のセリフ"Listen"とあります。聴く、それが誰かのスピーチの声であろうと、心の中に聴こえない声であろうと、知らない人の心のぼやきや囁きや嘆きだろうと、向き合って聴こうとする姿勢、それがいまの社会には足りないのではないでしょうか。彼女の最後のたった一言のセリフには、大変な重みがありました。


駄文で自己満足なレビューのようなネタバレなような読書感想文のような文章になってしないましたが、共感していただけましたか?笑 正直まだこの映画の余韻に浸って興奮が冷めやまないです。


要するに、ちゃんと伝える!ちゃんと聴く!ちゃんと表現する!愛と平和の心をもつ余裕をうむ、そして自分自身が自分であり続けること、誰しもが表現者でありうること、可能性をもっている。それを自覚していくこと、それが大切のではないでしょうか。誰しもがアーティストで、誰しもがなんらかの使命を持っているのだと個人的に思いました。


私が伝えたかったことは以上です。最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。レスポンスももらえると尚、嬉しいです。(笑)



おしまい



6/7 巡り

気分が悪い。めちゃくちゃ悪い。

何かが滞ってる…淀んでる…

ここ1週間で色んな事がありすぎてまた不安定になってきた。今までずっと蓋して見て見ぬ振りをしてたものをまた思い出してしまった。

自分が嫌な思いをするってわかってて、それを直視しなきゃいけないのかな、避けて通る道はないのかな、それは甘えなのかな。

直視して向き合ったところで私は何も得られないし自分が苦しむだけなんだけど、私がいることで誰かがそれ満足するなら自己犠牲するべきなのかな。会いたくないと思う私の気持ちは尊重してあげられないのかな。


今の私の気持ちを押し殺すことが多い気がする。将来のために、今後の皆のために、そうやって今の自分を大事にしない。一過性の気持ちに捉われずに大人の対応しなよ、と怒られる。

今の自分へのベストなパフォーマンスが、将来の自分のパフォーマンスに繋がると思うんだけどな。今の自分を大事にできないのに今後のみんなの事を大事にできるんだろうか。


今の自分の未来は、未来の自分の今だから、そんなことしてたらいつまでたっても先を見てばかりで足元見れないじゃないか!!

っていう悩み。

負けるが勝ち、逃げるが勝ちではダメですか。



うだうだ家に引きこもって考えてても溜まる一方でダメなので、家から出る口実を作る。

今日は友達のDJを聞いて友達のバイト先に行く。思いつきでヨガも行くことにした。


大学二年生の時にある友達がヨガの先生を目指していてビーチヨガに連れて行ってもらった。自然の中で目を瞑って呼吸したら凄くスッキリした。それ以来ヨガにハマった。

けどここ1年自分じゃなくて他人に目と心を傾け過ぎて自分の事を顧みなかった節があっておサボり、反省。

ヨガって体操かと思いきや、実は呼吸法のことで、陰と陽、体と心、相反する二つを否定せずに共存させていくこと。一方がないともう一方も存在できないっていう肯定をする作業かもしれない。(この話をするといつもアダムとイブの話と英語における人称の話をふと思い出す。相手がいて初めて自分を認知する的な)


行ったり来たりしてぶれることで、真ん中に落ち着くっていう意味で、某先生の言うとおりかもしれない。ブレてていいのかもしれない。



運動は得意ではない。走るのも好きじゃない。でも泳ぐのは好き。水の中では体が軽く感じる。水は人間に必要不可欠なのに呼吸できないのが生の実感に繋がる。


ダンスも大好き。音楽も好き。(この前学校の友達2人と歩いててふとした拍子に表現したかったことをダンスにしたら、歌より踊りが先にきてやっぱり人類最古の文化って踊りなんだねという発見に笑う場面があって面白かった)

そうやって色んなことしながら血の巡りも、心の巡りも良くしてスッキリしてこよう。


おしまい



5/31 Bon Appetite

「食べることは生きること。」「豊かに食べることは豊かに生きること。」をこれまでモットーに生きてきて、ずっと美味しい物を食べて、食べることは何よりも楽しみだったのにな。


最近は量はかなり食べてはいるんだけど、ストレスによる過食ばかりでとりあえず満たされない欲求を埋めるために食べるという行為だけを何度も繰り返す。


純粋な喜びとか感性とかそういう要素が一切抜けてる。


食べ物に関する映画でも観たら食欲とか感性?とかが戻るかなあ〜という安易な考えで観てみたので感想を。

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『EAT PRAY LOVE』

ジュリアロバーツ主演の映画。それは結婚生活が破綻した女性が世界中を旅して食べて祈って再び恋をすることで自分を取り戻すというストーリーのもの。

まあぶっちゃけ、ジュリアロバーツ好きじゃないし、スパゲッティの食べ方が汚いし、自分探しなんか無駄だろ!宗教なんかに入れ込んでるんじゃないよって感じなんだけど(笑)その映画にこういうセリフがあるのをふと思い出した。


" I used to have this appetites for food, for life and it's just all gone. I wanna go somewhere I can marvel at something."

訳すと「昔は食べ物や人生に貪欲だったのに今ではもうすっかり!自分が何かに驚き入ることができる所に行きたいの」というもの。

いままさしくこんな感じ。食べ物に対しての真摯な気持ちや純粋な欲求はどこへ行ったのかしら。いつから人生の喜びから食事が抜けちゃったんだろう。


そういえば、ごはんを作るのが好きで誰かのために食事を作ったり、自分の赴くままに献立を考えたり、綺麗に盛り付けしてそれをインスタとかで公開したんだけど、それを一回否定されたんだよね。


別に自慢したかったわけでも押し付けがましく料理できるアピールしたかったわけでもないのにそういう女は「うざい」とか「重い」とか。そんな風に思われていたなんて悲しみしかない。

でも私も最初は純粋な食事への喜びを表現したかったのがいつの間にかそういうアピールの道具に切り替えてしまっていたのかもしれない。


だから一番食事をしたい相手と食事ができなくなったり、作る相手がいなかったり、人に目的意識がいってしまって自分を最優先にしてあげられなかった日々が続いて今になって苦しんでるのかもしれない。


純粋な気持ち取り戻したい。



もう1本食べ物に関して観た映画を紹介。私の好きなジュードロウが出演!

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『My Blueberry Nights』

恋人の心変わりで失恋したノラジョーンズ扮するエリザベスを慰めてくれたのはカフェのオーナーでジュードロウ扮するジェレミーが焼くブルーベリーパイだった。しかし、それでも別れた彼を忘れられないエリザベスは、旅に出る。様々な人と愛の形を目の当たりにしていき、エリザベスは次第に自分の気持ちに踏ん切りがつき結局ジェレミーの元へ戻る、というもの。

まあ結局これも失恋して自分探しして〜みたいなやつでストーリーは別にって感じなんだけど。映像の雰囲気やノラジョーンズの歌声とジュードロウがかっこいいのでまあそれはそれで良い。で、この映画で気になったセリフがこちら。

 "So what's wrong with the Blueberry Pie?"
 "There's nothing wrong with the Blueberry Pie, just people make other choices. You can't blame the Blueberry Pie, it's just... "

「売れ残るブルーベリーパイには理由がない、ただみんなブルーベリーパイじゃないという選択をしただけだ。ブルーベリーパイを責める必要はない。」

救われる一言だった。

みんなが選ばないブルーベリーパイを選んであげようと思った。だから作ってみた。

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ブルーベリーパイにアイスクリーム。

キスシーンにほんの一瞬ブルーベリーパイと溶けたアイスクリームが混ざり合うコマがあってそこがこの映画で1番お気に入りのシーン。美味しそうなキスだった。


食欲が戻りますように。
食べたい物を食べたい時に一緒に食べたい人と。







でもやっぱり夏に向けて痩せたいな(笑)
人生って難しい〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜




おしまい


5/24 モノマチセブン!


大好きな台東区に今年もやって参りました

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大好きなものづくりイベント「モノマチ」は、台東区の「カチクラ」という御徒町〜蔵町の地区でやっているモノづくりのイベントです。台東区スカイツリーが見守る下町で、問屋さん街。でも最近はクリエイターが多くお店を出しているモダンな街でもあります。

私がアルバイトしている「IKETEI」という革小物のお店は浅草橋にあり、モノマチ参加店で毎年ワークショップをやっています。今年も就活の合間を縫って参加してきました。

今年作るのは、顔に見えるカップホルダー☺︎
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タカラ産業さんで革を買い、イケテイで加工、フォレドールさんで飲み物をGET、ハナラクドウさんでお花を貰うという街のお店を巡りながら完成させる素敵なワークショップです。

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革は以外とかたくて力を入れて穴を開けたり、顔のパーツを選んだり、手作りってやっぱり楽しいな〜これまでメガネケースや定期入れを手作りしてきて革細工って本当に楽しくてハマっちゃいます。

そして佐竹商店街で行われているクリエイターズマーケットでずっと欲しかっとものを買いに行ってきました。

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じゃじゃん!cometmanというクリエイター作の蜂の翅ピアス🐝ブーン

ステンレス製で手作りで翅のデザインを加工しています。実はよ〜くみると1枚のステンレス板なのに裏表でデザインが違うんです。

あぁっ超可愛い…本当に買ってよかった!

そんな感じで今年のモノマチ、ほんの少しだけど楽しみました。



おしまい


5/9 素数

23年前に生まれたのか…なんか遠い昔のような気もする。23年間心臓が止まることなく鼓動を続けていて疲れないのかな…凄いなあ…と我ながら自分の身体が信じられない。でも23という年数なんか人間にしたらまだまだこれからだと信じたい。


毎年松尾と新しい歳のキャッチフレーズを考えている。

20歳「Hatachi -Inspire the next-」
日立のキャッチフレーズをもじってみた(笑)1年生の時で新しい何かに取り組む事が多くて、そしてそれは今に確実に繋がっている。

21歳「However 21」
完全にForever21のパクリ(笑)なんだかんだ21歳になってしまった、そんな気持ちで。

22歳「catch 22」
これは小説のタイトルに由来するイディオムで、どうにもらない状態という意味。本当にどうにもらなくて辛かった…

なんだかんだそのキャッチフレーズ通りの年を過ごしているかもしれない。

23歳「自分自身と愛で割り切って生きる素数

・23は素数で1とその数でしか割り切れない
・1はローマ数字でⅠ→アイ→愛!
・その数すなわち、自分自身!

色々不条理な事が多い世の中だけど、自分を信じて自分の価値観と愛を持って世の中を割り切っていくしかない、そんな感じの歳を送るようです。悪くないな。いい年にしたいです。

そんな感じで22歳最後の日をたくさんの人と楽しく過ごさせてもらいました。



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ありがとう。
うまく笑えるようになってきた。




おしまい




5/1 わらびもち

松尾とずっと延期しまくってた鎌倉探検にやっと行ってきました。半年ぶり。


いつものノープラン食い倒れツアーだったけど結局食べたかったカレーにはありつけず…最終的に作れば良くない?みたいになるのが私たちらしくてちょっと笑った。安心した。

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お目当てのアクセサリーは文字通り手に入ったので良しとしよう。

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狭い線路脇の小道を行ったり、気になるお店を全部見て回ったり、地図を見ずに歩いたり、時間を気にせずただひたすら歩いて。

お天気にも恵まれて、楽しかったな。

そして鎌倉に住んでいる先生も合流することになって3人で鎌倉散策。先生の感性と言葉と経験で案内される鎌倉はまるで知らない場所で。近場なのに遠出をした旅行みたいで。

昼からずっと歩いて語ってそんな良すぎる週末。私の話にこんなに丁寧に耳を傾けてくれる先生は、なかなかいない!


苦しみがスッと抜けたというか。苦しみもその気持ちも常に崇高に持って、大切にする。傷口は塞がなくていい、そんな風に言われて自然と背筋が伸びた。

鎌倉に吹く海風に靡くロマンスグレーの髪と、大きな喉仏から出てくる繊細で丁寧な言葉に癒された。

多分、お昼に食べた出来立てわらびもちみたいに、顔と心が緩みっぱなしだったと思う。




おしまい